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 山田 洪志  先生


 『四十年のゲンコツ人生 日本拳法九段 山田洪志さん(六一)』
     毎日新聞・「東海人間模様」vol.280 昭和46(1971)年5月13日

  ・ ・ (略) ・ ・ 「私のこれまでの人生は、まったく拳法一筋で暮れてきました。でも、こんな人間がいてこそ、歴史がつくられるのではないでしょうか。」 自信に満ちあふれた人生観が、おだやかな口調からとび出す。折り目正しく、節度のある態度。全身からスポーツマンの威風がにじみ出る人だ。
青年時代の山田さんには、今日、伝説化して語り継がれている逸話がいくつもある。 空手が沖縄からもたらされてまもないころから、ずっと歩みをともにしてきた数少ない先達者の一人。 空手との出会いは、関西大学に入学した昭和4年。当時、全国でもまだ慶応大学と松坂屋東京支店の二ヶ所が空手をはじめたばかりのころだった。
 関大予科で山田さんは先輩の澤山宗海氏(日本拳法宗家・関大講師)とめぐりあう。「関西でも、沖縄の当て身をやろうではないか。」そのころすでに柔道四段だった澤山氏と山田さんは、このとき以来、長く結ばれることになる。 ・ ・ (略) ・ ・
 三角とびが神秘的に喧伝されたのもこのころ。試合をすれば必ず怪我人が出る。そこでやむなく型をみて段が与えられた時代だった。ともかく鍛えよ、みんながそれをあこがれた。予科、大学を通じて、山田さんは、空手の道にひたりきった。
   千里山の下宿。ちょうちんをともして毎晩、澤山氏、友人の三人で神社に出かけ、猛練習をする。「風呂の焚き木は、オノなど使わず練習と称しては手刀で割ったものでした」
「関大の山田」の名がとどろく。伝説化した逸話は、みな当時の`空手の達人’山田さんに付随している。
 昭和7年、沖縄の東恩納氏の流れをくむ達人、宮城長順氏が本土にやってきた。本場の空手をたずさえてきた宮城氏は東京からの帰途、関西に立ち寄って、山田さんの下宿で一週間過ごし、本土ではだれにも教えなかった「クールンハー」の型を山田さんに伝えて帰った。
 空手はスポーツとして、あまりにも危険が多過ぎた。型だけでなく、試合も安全にできないものか・・。山田さんは澤山氏を中心に安全な「防具」を作ることに力をそそぐ。同時に、喧伝されていた「神秘的な空手の威力」を忌み嫌った。
「空手とは決して科学を超越したものではない。すべてのワザが科学的・物理的に説明できるはずだ。健康や衛生を無視した過去の武道ではなく、時代に合ったスポーツとして広めよう」。 澤山氏や山田さんの情熱が、今日の「日本拳法」を生み出したのだった。
・ ・ (略) ・ ・ 金もうけとはまったく無縁である。主な相手が学生であるため、むしろ豊かでない私財を投げ打ってきたというべきだろう。山田さんが、かつて町内に一人か二人しかいない大学卒の法学士になったとき「大学を出てケンカの先生になった・・」となげいた父親の死にも、期待を裏切った息子は駆けつけることができなかった。 ・ ・ (略) ・ ・


『残心』
『残心』  為関 哲男兄
山田洪志書  1978(昭和53)年